曼荼羅の説の続きだ:
両界曼荼羅は五智(ごち)を具象する。五智とは覚者になったら与えた智だ。
五知とは:
・法界体性智 は真ん中に大日如来(だいにちにょらい、Mahāvairocana tathāgata)に具象されている。
・大円鏡智は東に 阿閦如来 如来(あしゅくにょらい、Akshobhya tathāgata)に具象されている。
・平等性智は 南に宝生如来(ほうしょうにょらい、Ratnasambhava tathāgata)に具象されている。
・妙観察智は西に阿弥陀如来(あみだにょらい、Amitabha tathāgata)に具象されている。
・成所作智は北に 不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい、Amoghasiddhi tathāgata)に具象されている。
以上の如来は五智如来という。大日如来は四人の如来を含める。なぜなら、大日如来は法界とそのもなだ。法界とは、全世界という意味だ。
三身(さんしん・さんじん)
大日如来は三身として現れる:
・法界(ほっかい)と及ぶ究極の身は法身(dharmakāya)だ。
・菩薩(ぼさつ)の姿をとっている身は報身(sambhogakāya)だ。
・人間、すなわち釈迦(しゃか)の姿をとった大日は応身(nirmānakāya)だ。
さまざまな天部(てんぶ)や神は密教のパンテオンに数え切れないほど存在するが、実際にすべては大日如来の法身だ。大日如来は法界と同じだが、法界の本質は空虚だ。
神々=>大日(法身)=>法界=>空虚
しかし、人間が見える世界は神々が個人的な存在をして、特徴を持つ。
そして神の力のレベルは曼荼羅の置付けによる。曼荼羅の中心に近付ければ近付けるほど神のエネルギーのレベルが高まる。
一般の信者は密教の哲学は分かりにくいのであまり興味がなくて、神の力だけ欲しがっていた。
信者達は観念を通じて曼荼羅にいる佛や神と一緒になりたがっている。その方法で人間を越えるち力を手に入れると信じられている。しかし中心にいる大日如来や他の如来と菩薩はエネルギーの高すぎる存在だ。
仏と一緒になるの可能は哲学的な説として 即身成仏(そくしんじょうぶつ)という。この身体に仏になるという意味だ。それは空海の根本的な説法だった。
修業者(しゅげんじゃ)は生きている間に仏になれるの方法は三密を通じて仏の加持(かじ)を頂く。
三密(さんみつ)とは:
身密 口密 意密
⇒身密(しんみつ)に当たる行動は印を結ぶということだ。
⇒口密(くみつ)にあたる行動は真言や陀羅尼を唱えるということだ。
⇒意密(いみつ)に当たる行動は観念するということだ。
密教の儀式は三密の理論に基づく、信者をそれぞれの菩薩や明王(みょうおう)と一つに合わせて、そして日常的な個人に戻らせる。
以下:三密を象徴する三鈷杵(さんこしょ)という密教法具
Subskrybuj:
Komentarze do posta (Atom)
Brak komentarzy:
Prześlij komentarz